
書店は2階。建物内にはコンサルティング会社、映画配給会社、カフェ、アパレルショップなども。
色とりどりの韓服に身を包んだ観光客を横目に、緩やかな坂道を上っていくと、閑静な住宅街の中にひときわ目をひくレンガ造りの建物がある。
かつて外国人宣教師の宿舎だったその場所は、今、本と癒しに満ちた大人のサロンとして親しまれている。

建物内部は建築家のファン・トゥジン氏がリモデリング。窓が多く開放感がありつつも、どこか隠れ家のような雰囲気が漂う店内。
書店「ブックサロンテキストブック」はソウルの中心部、西村(ソチョン)にある。このエリアは朝鮮王朝の王宮「景福宮」や旧大統領府「青瓦台」の西側に位置し、昔ながらの古い路地や在来市場のほか、伝統的な家屋を活かしたゲストハウスやカフェなどが点在。韓国を代表する詩人・尹東柱や作家の李箱など、多くの文人や芸術家が暮らした場所としても知られている。
コロナ禍で訪れた書店オープンのチャンス
そんな西村に「ブックサロンテキストブック」が正式オープンしたのは2022年8月。パンデミックが落ち着き始めた頃とはいえ、この時期に書店を開いたのはなぜだろう? 大統領府で国家公務員として務めた経験があり、10年以上世界各国の書店や文具店を訪ね歩いてきたという代表のユ・ミンヨンさんは、当時をこう振り返る。
「私は10年ほど前からこの建物の3階でコンサルティング会社も経営しているんですが、コンサルティングとは大衆や世論がどこへ向かっていくか戦略を練る仕事なので、常に学び、研究するため本をたくさん読んできました。いつかそれらの本に特化した書店を作れたらと思っていたところ、コロナ禍で2階の出版社が撤退。すぐ家主に掛け合い、10か月の試験期間を経て店をオープンしたんです」
西村はビジネス街である光化門からも近いため、推薦書を100冊並べ、コーヒーやお酒も飲める書店を作れば、仕事や人生の戦略を練るために会社員たちが立ち寄ってくれるはず…。当初はそう考え、自信満々だったというユさん。
「始めて数か月で、それがいかに傲慢な考えだったか思い知ることになりました」
自分たちが薦めたい本ではなく、書店を訪れる人たちが求めている本とは何か。人々がいま何に悩み、苦しみ、どんな話を読みたいと思っているのか。そう視点を切り替え、自ら心を開いていくと、今まで見えていなかった本が目に留まり、取り扱う本も多様化していったという。

「昔から新聞と本、文具が大好き」という代表のユ・ミンヨンさん。日本の「代官山蔦屋書店」とイギリスの老舗書店「ヘイウッド・ヒル」から大きな影響を受けたそう。

「踊っている時はルールを破ってもいい」。店内の大きな窓にはアメリカの詩人、メアリー・オリバーの詩集から引用した一文が。
書店はお客さんと一緒に作る場所
店内には、話題の本、小説、趣味、旅行、歴史、ビジネス、ヒーリング、詩集、芸術、絵本など厳選された多様な本が並ぶほか、その時々テーマを決めてユさん自身がキュレーションした本が紹介されている。取材時には「2025年、私に訪れたもの」と題したコーナーに、ポプラ社発行『シルバー川柳』の韓国語版が2冊置かれていた。また、人生を飛行機での旅に例え、「出発」「乗り換え」「到着」という書棚を設置。それぞれのライフステージで気づきを与えてくれる本を展示している。
オープンしたのがコロナ禍だったからか、お客さんたちが手に取るものは癒しや優しさ、絆や連帯感をテーマにした本が多く、今でもその傾向は続いているという。「昨年はランニングが流行した影響で運動系の本が人気でした。今は大統領による戒厳令以降の混乱で、脳が疲れている、頭が痛いという人たちが多いので、癒しや浄化、そして筆写や文章を書くことに関する本を多く並べています」
その言葉通り、以前はノーベル文学賞を受賞したハン・ガンの本が展示されていた場所に、筆写をテーマにした本がずらりと並んでいた。また、書店の中ほどには筆写コーナーもあり、机の上に原稿用紙や万年筆が置かれていた。「もともとこの書店の常連だった」というディレクターのパク・ユスさんは言う。「毎週土曜日の午後、必ずやって来てエスプレッソを頼み、本の一文を筆写して帰っていくお客さんもいるんですよ」。今後、来店者が書き残した筆写を展示する計画もあるそうだ。
「書店とはお客さんと一緒に作る場所なんですよね」と微笑むユさん。「書店の扉を開くと、新しい人、新しい考え、新しい風が入ってくる。それらを受け入れると人の心を理解することができるようになり、世の中の流れもわかる。私たちは『扉を開ける人』なんです」

文具好きのユさんが選んだ万年筆で、好きな一文を筆写できる。万年筆やインク、付箋などの販売も行っている。

コーヒー、ソフトドリンク、ビール、ハイボール、ワイン、ウィスキーが味わえる。注文時にもらえるスタンプを10個集めると、1杯無料に。
しばし休み、考え、学んで帰る過ごし方は人それぞれ
温かみのある木製の家具で統一された店内には9つの窓があり、庭に佇むイチョウの木やソウルの街並みが見渡せる。本を購入するかドリンクを注文すれば、好きな席に座って心ゆくまでこの空間を楽しめるわけだが、中にはこんな「ありがたくも衝撃的」なお客さんがやって来ることもあったとか。
「朝10時にスーツを着た方が来て、ビールやウイスキーを頼まれるんです。本を読んだり、ある時はソファでうたた寝したりして。後から聞いたところ会社員だったんですが、バーンアウトした(燃え尽き症候群になった)そうなんですね。同じような学校の先生もいらっしゃいました。あと、扉を開けた瞬間『本がある!』と逃げ出していく人もいたりして。それでも、店に入ってきた人の多くは本を手に取り、休息やヒーリング、考えをめぐらせるなど、思い思いの時間を過ごしてくださるので、ありがたいなと思っています」書店では毎月数回、作家や専門家を招いてブックトークを開催しているほか、毎週金曜には、人生と仕事についてのインスピレーションをシェアする、ユさん主宰の勉強会も行っている。この勉強会はすでに80回以上実施され、学生や記者、企業人までさまざまな人が参加しているという。

エントランスにはお客さんたちが書き残した付箋が。「『来年は幸せになるぞ!』という言葉を見つけた時は涙が出そうになりました」とユさん。
「西村」のような書店であり続けたい
2010年代から韓国では個性豊かな独立系書店が誕生してきたものの、消えゆく店も多く、コロナ禍では古くからある街の書店も廃業していった。またここ数年、あちこちで本作りのワークショップが開催され、「本を読む人より書きたがる人が増えている」という話もよく耳にする。常に時代の今を見つめ、先を読む仕事をしてきたユさんはこう分析する。
「コロナ禍以降大きく変わったことの1つに、人々が自分の話を書きたがり、身近な人が孤軍奮闘する話を読みたがるようになった、ということがあります。分離や断絶の恐怖を味わうという社会的な経験をし、大切な人たちと自分を守りたいという気持ちも大きくなりました。そういう状況の中でこの書店は始まり、成長してきたのです」
西村が好きで、とても素晴らしい場所だと語るユさんに今後の展望を尋ねてみた。「西村は都心から歩いて10数分でまったく違う世界が広がり、情緒があって癒され、新しいインスピレーションが得られる街です。この西村のような書店を作りたい。そして、それを維持できればと思っています」
取材を終え、書店の階段を降りていくと、1階に立て掛けられた全身鏡の中にこんな一文が刻まれていた。「誰しも星のように輝く瞬間がある」。胸に込み上げる熱いものを感じながら、まるで自分だけの秘密基地を見つけたような気持ちで書店を後にした。
※本記事は『八文字屋plus+ Vol.9 春号』に掲載されたものです。
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