「五月雨を集めて早し最上川」芭蕉...この俳句は学生のときに習った。さらに「最上川は日本三大急流のひとつと言われている」と先生が教えてくれた。

 三大急流とは富士川(静岡県)球磨川(熊本県)と最上川なのだが、これは最近の小学校でも教えているのだろうか。私は富士川も球磨川もそばに行ったことがあるが、それほどの急流にも見えなかった。もちろん時と場所にもよるのだろう。急流とは水源と河口の標高差によるらしいのだが、この言葉は最近は流行しなくなっているのかもしれない。

 しかし私の生まれ故郷である山形県の最上川について具体的には殆ど何も教えてもらわなかったようだ。確かに「この川が一県で首尾を全うしている日本で唯一の川である」ということぐらいは知っていたが。

 そもそも大昔、我が服部姓の先祖は関西方面にいた帰化中国人らしい。その意味ではひと頃劇画で有名になった「服部半蔵」などと同じ部族かもしれないが、西国で定住することが出来ず、つまり暮らしが立てられなかった同胞?は、やむを得ず日本海海沿岸を北へ北へと流れたのであるらしい。その証拠には福井、金沢、新潟などには服部姓が定着していてその家族が存在する。山形新聞創始者の服部社長一族は新潟県新発田の出自である。ある時偶然に山形県の遊佐町の海近くに「服部興野」という集落があるということを知ったことから、私のいい加減な推測が始まった。ここより北、秋田県にも青森県にも服部と称する地名(関西にはいくつか存在する)がなさそうだから、我が先祖一行はここに仲間の一部を残して右折東上して、さらに最上川沿いにだいぶ遡り村山平野に至り、中山町あたりに農地になり そうな場所をみつけ、やっとその残りが定住できたと考えられそうだ。

 これは今から約四〇〇年以上も前のことらしい。そこがつまり今も残る我が一族の本家中山町の服部文衛門新田なのだろう。ここは最上川の右岸から一キロほど南側の水田地帯である。

 もう七十年以上も昔、戦争中のことである。山形市の小学四年生だった私は夏休みに本家に泊りがけで遊びに行った。そしてこの辺の子どもたちにつれられて最上川に「ナマズしぇめ」に行った。もちろん町っ子の私は川に入り石垣に腕を突っ込んで魚をつかみ出す「ナマズしぇめ」には参加できず、川岸で獲物のバケツをぶら下げて番をする係なのだった。

 ここで目の前の「集めて早し最上川」の急流をじっと見ることになった。中山町あたりの最上川は真ん中が激しく盛り上がって直線でながれている。なるほどこれが急流のひとつと言われている所以、いつも遊びに行く山形市の馬見ヶ崎川などとは大きく違っていた。この時から数十年間、私が最上川をまじまじと見ることはなかった。

 私が最上川に本格的にハマったのは昭和五十五年の夏、NHKの委嘱で文化庁芸術祭参加の合唱曲を制作した折である。山形県のバックボーン最上川をテーマにした大きな作品にすることになった。作詞を旧知の真壁仁氏にお願いした。

 真壁さんは私の祖父の親しい詩人だったし、それ以上に戦争中山形県の「米の品質検定員」として県内ひろく歩き回り、川の事情を詳しくご存じの人物だということを知っていたからであった。このときはNHKの車で全二〇〇キロにおよぶ最上川取材ドライブをした。その途上、真壁さんから私が全然知らない最上川の横顔だけでなくその歴史を教えてもらった。やがて真壁さんが書きあげた女声合唱の組曲「最上川」は全六曲からなるもので、私がそれまで作曲したことのない壮大な最上川「抒情・叙事詩」であった。

 まず最上川は吾妻山の源流にはじまって白鷹町荒砥の十六世紀末の隠れキリシタンの話。村山市あたりでコメなどの運搬船を襲う「川賊」のこと。中流は大石田出身の小松均画伯のエピソード、新庄市元合海の複雑な流域と大きな左旋回(北上して来た川が西向きになる)の美景、河口の白鳥飛来、日本海へ合流という構成だった。

 この取材ドライブと真壁さんの教授により、私は最上川の岸辺を時系列的にも一歩一歩遡り、この川と山形県を改めて認識した。私はそれ以来その岸辺の村に四〇〇年盤踞していた一族の末裔なのだなあとの思いを新たにしたのだった。

 この壮大な作品はその年の秋完成、NHKのラジオ番組になった。この仕事の付録に楽しい仕事が舞い込んできた。あるとき真壁さんが、
「作曲料なし、という校歌を作ってくれませんか」と言ったものである。
「大蔵村に赤松小学校が出来て、そこの校長が私の友人でね。こんどの合唱組曲「最上川」の記事をどこかで知って、私と貴方に校歌を作ってもらいたい、と言うんですよ」

 それは最上郡の大蔵村、父ちゃんはみな出稼ぎ、祖父ちゃん祖母ちゃん嫁さんが父ちゃんの留守を守っている、典型的な「三ちゃん農業」の集落で児童数五〜六十名の小規模小学校とのこと。何とその校長淀川盛利先生はそもそも画家なのだという。そういえばこのお名前は県美術展覧会などで見覚えがあった。

 この大蔵村赤松集落に真壁さんは米の品質検定員時代に何度も行ったことがあるらしく校歌の草稿はすでに出来ていた。もちろんこの話に否やはなく、すぐ作曲した。

 その発表会を翌年の二月に行うことになり、このとき初めて大蔵村赤松集落を訪問した。丈余の雪という言葉は知っていたが本物の丈余(一丈は十尺) の雪を経験するのはこの時が初回、何と赤松小学校の一階は雪にうまっていたのだ。校門は道路から下って行かなければならなかった。発表会のあとPTA主催の茶話会になったが、そこに父親らしき壮年や青年は居らず、いたのは母ちゃんと祖父ちゃんだけだった。その会のあと淀川校長は私を冬の最上川に案内してくれた。淀川さんは最上川の絵で有名な真下慶治画伯のお弟子さんでご自分も最上川を描くことを生涯のテーマにしている人物だった。

 最上川の堤防上の道路は新雪が深く遠くまでは行けなかったが、冬の最上川は黒く流れていた。今まで見たこともない恐ろしい風景だった。恐ろしい最上川を歌った和歌も絵画もしらない。これがこの急流のもう一つの実像であった。

 淀川校長が校歌作曲の謝礼にと贈ってくれたイラストは、事後三十数年我が家の玄関を飾っている。赤松小学校は二〇〇六年廃校になった。

 因みに、この作品「管弦楽と混声合唱のための・最上川」は「山形市民音楽祭」(山形市民会館)で改定発表された。演奏は山形市の合唱団全体からの自主参加、小学校生徒、山形フィルハーモニー管弦楽団、ブラスバンド、などすべて山形のアマチュア音楽家、指揮は鈴木義孝氏である。



最上川・本合海 画/淀川盛利


(出典:『やまがた街角 第82号』2017年発行)
※一部表現、寄稿者の肩書等に掲載誌発刊時点のものがあります。

●『やまがた街角』とは
文化、歴史、風土、自然をはじめ、山形にまつわるあらゆるものを様々な切り口から掘り下げるタウン誌。直木賞作家・高橋義夫や文芸評論家・池上冬樹、作曲家・服部公一など、山形にゆかりのある文化人も多数寄稿。2001年創刊。全88号。