地蔵さんは観音菩薩とともに庶民から親しまれた仏といっていいだろう。近辺の霊場巡りには村山四十八地蔵巡拝もある。我が家の墓地にも地蔵さんが一体彫られてある。幼くして逝った愛し子を弔ったのであろう。

 唄にでてくる地蔵と一寸違う地蔵さんがある。場所は旅籠町の一卜町地蔵堂である。紙に描かれた3枚の地蔵さん、いずれも「八万四千之内第◯◯番」と書かれている。八万四千体之内第何番と書かれた地蔵絵を確認できたのは三箇所目である。

 事の発端は平成16年に鉄砲町向泉寺の本堂に貼ってあった地蔵絵に出会ったことにある。三千百九十三とあった。一体何の番号であろうか。八万四千もの地蔵をどうしようとしたものか。山形の地とどんな関わりがあるのか、ナゾはどんどん膨らんでいった。

 世の中は広いもので、執念に近い行動でこの数字を解明した人がいる。兵庫県にお住まいの木下さんという方である。この地蔵絵は東京上野寛永寺末の東叡山浄名院の住職、妙運和尚の誓願によるものであることが分かってきた。

 浄名院の「八萬四千体地蔵尊縁起」に「明治十二年、地蔵比丘(妙運)御年五十三になられ、三月二十四日ここにはじめて石地蔵八万四千体建立の大誓願に進むに至ったのであります。願文に曰く、〈「吾も亦発願す、生前死後、自他の人を合わせ、八万四千の石地蔵を此の娑婆世界に建立し、一は仏祖の洪恩に酬ひ、一は澆末の衆生を救はんと欲し、自ら地蔵尊の真影を拝写すること亦実に八万四千体、是を以て普く八万四千人に授与し、その受施者をして必ず一体建立の善縁を結ばしむ。〉…このように八万四千体の発願已後に拝写せられた御影は、一々番号を記入して有縁の信者にお授けになりました。」とある。

 八万四千人の人に番号を付した地蔵絵を授け、石地蔵の建立をお願いしたという。向泉寺の地蔵絵は妙運和尚が描かれたものであった。

 上野浄名院の境内には地蔵がびっしりと造立され、その数二万五千体とも云われている。平成26年の夏、暑い日盛りのなか浄名院を訪れた。全ての地蔵像に番号が彫られている。地蔵信仰の広がりに圧倒された。



東京上野浄名院の地蔵


一卜町地蔵の地蔵絵


 浄名院をどうしても尋ねたかったのには理由があった。向泉寺の地蔵絵に出会ってから10年振りに驚きの情報が入ってきたからである。七日町法祥寺観音堂の壁面に額装された地蔵絵が掲げられているという。それには「八万四千体之内第三千八百三十三」と書かれていた。向泉寺の地蔵とは六百四十番の差である。八万四千の総数から考えると、ごく初期に近似のものどうしということになる。どんなきっかけが浄名院に足を運ばせたのであろうか。

 浄名院に山形の人がどれだけ地蔵像を造立したかは定かでない。また調べようも無い事である。兵庫県相生市に四千五百二十番と彫られた地蔵があるという。浄名院に納められたものだけではないようである。もしかしたら山形市内にもひっそりと我々を見守っていてくれているのかも知れない。

 三番目に出会った一卜町地蔵堂の地蔵絵は、三千百九十一番。五千二百三十一番・三百九十番の三枚である。法祥寺観音堂のそれとは一番違いのものもある。二人揃って浄名院妙運和尚から施しを受けたのかも知れない。妙運和尚の願いは石地蔵の造立であったが、地蔵絵を納めた人たちの心は、石地蔵を作った人と同じ祈りであったように思われる。

 野の片隅の地蔵堂に何気なく貼られているかも知れない。その地蔵絵が人々の悩みを救ってくれたとすれば、妙運和尚の思いが通じたと思いたい。


(出典:『やまがた街角 第78号』2016年発行)
※一部表現、寄稿者の肩書等に掲載誌発刊時点のものがあります。

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文化、歴史、風土、自然をはじめ、山形にまつわるあらゆるものを様々な切り口から掘り下げるタウン誌。直木賞作家・高橋義夫や文芸評論家・池上冬樹、作曲家・服部公一など、山形にゆかりのある文化人も多数寄稿。2001年創刊。全88号。