現在の店舗


今では全国的に知れ渡った山形の蕎麦。一家言お持ちの方も多い。とはいえ、思い出に残るのは、若かりし頃よく通ったあの街の食堂の味などという蕎麦好きもおられるのではなかろうか。旅籠町市役所裏の品川家は、そんな懐かしい香りの漂うそば屋である。しかしこの品川家、そば屋としての歴史は相当に古い。創業の時期こそ、よくわからないものの、恐らくは、山形でも指折りといっても過言ではあるまい。



大正末頃の品川家


今、手元に短編の随筆がある。それは大正10年(1929)発行の『山形経済志料』第一集(山形商業会議所経済志料編纂部編)に菅原生なる人が寄せた「山形の蕎麦屋と餅屋」と題する一編。管見としては、この店の歴史について語る唯一の史話となるので、少し紹介したいと思う。

「場所だ々々と六日町場所だ。そば屋もみじ屋(紅葉屋)はりこみ屋」これは旧幕府時代に六日町の名物と云われた飲食店を読み込んだ盆踊りの唄であるそうだ。年代は天保の末頃からで、そば屋とは現在の品川屋雁島公園のことで、以前の屋号は和泉屋と称したが、弘化年中水野和泉守が山形にお国替えになって入部した時、領主の官名を憚って品川屋と改めたもので、その頃は六日町交番所の北向い(故高橋健治氏病院の跡)にあった。(中略)天保の頃の和泉屋善五郎と云えば山形一流の高等蕎麦屋で、そばの値段も他のそば屋よりはズッと高く、上流社会でなければ喰えないものにしてあったそうで、…」

この記録によると、品川家の前身は、和泉屋という名代の高級蕎麦店で、六日町交番所は現在の六日町第一町内会集会所の向かい辺りだから、その北向かい、天然寺境内の南西角付近に位置していたようだ。屋号にみえる土地の名は、その出自と関係あるのだろうか。不詳である。いずれにしても、天保の改革で知られる水野忠邦の長子和泉守忠精の山形天封は、弘化2年(1845)のこと。屋号を改めた当時の店主は善五郎。明治期を迎える頃には、自身の名と店の暖簾を娘婿に継がせていたようだ。その後は、善吉、喜助、亀吉、兼一と続き、現在で七代目。品川家となって170年近くに及ぶ。それだけでも、東京の老舗に目劣りしない歴史を有する蕎麦屋なのである。

ところで、品川家については、弊誌24号に付録した明治15年(1882)の「山形人物一覧」(黒羽彌吉編)の中にも、蕎麦屋として当時七日町にあった東京庵と並びその名が見える。しかし、現在地へ移転し年代はよく分からない。六日町にあった当時は、貸家であったというから、あるいは明治44年(1911)の山形北大火などを契機としたものか。遅くとも、菅原生が件の短文を記した大正年間の後半には、現在地に移っている。



かつて使われていた屋号入りの半纏


この当時の湯殿山神社(雁鳥公園)の界隈は、山形の中心市街地と下町との接点で、町の活気と人々の暮らしが重なり合い、独特の風情があったようだ。参道両脇には飲食店などが並び、雪のない季節には、青物を売る夜市が定期的に開かれていたという(田中邦太郎「旅篭町かいわい」『やまがた散歩』No.220)。品川家もそのような市井の中にあったのだ。大正の末頃に撮影された店の写真からは、生蕎麦の他に、しっぽこや鍋焼きうどん、洋食などを提供していた当時の様子がうかがわれる。「私もこの街の人間ですから、湯殿山神社を遊び場として育ったようなものです。その当時はまだこの辺りも大分賑やかでした。県庁や市役所なども近いですから、店は、そういった職場の人達にもよく利用してもらいました。2階の座敷ではよく宴会が開かれ、牛鍋など今はない料理も出していたようです」、そう語るのは、現在の店主佐藤吉弥さん。東京での修業を経て、父の跡を継いだのは、平成3年(1991)のこと。現在の人にも馴染むよう工夫しながら、古くから店の味を守り続けている。蕎麦の他に山形では珍しいきしめん、ラーメンや丼物など、品書きには気取りのない大衆の味が並ぶ。冬場にはうどんも出す。戦前からの代表格は、「しっぽこ」という具入の餡かけうどん。最近では、納豆そばが評判のようだ。



品川家
山形市旅篭町二丁目1-26
TEL. 023-622-2287

(出典:『やまがた街角 第63号』2012年発行)
※一部表現、寄稿者の肩書等に掲載誌発刊時点のものがあります。

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文化、歴史、風土、自然をはじめ、山形にまつわるあらゆるものを様々な切り口から掘り下げるタウン誌。直木賞作家・高橋義夫や文芸評論家・池上冬樹、作曲家・服部公一など、山形にゆかりのある文化人も多数寄稿。2001年創刊。全88号。