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山菜料理の名店出羽屋

 

※一部表現・肩書き等に掲載誌発刊時点のものがある場合があります。


山菜といえば、山菜の宝庫月山の麓にある西川町間沢というわけで、創業八十年を超える山菜料理の老舗「出羽屋」を訪ね、三代目女将の佐藤明美さんに話を聞いた。

 

出羽屋は、なぜ山菜料理店になったのか

 出羽屋のある西川町間沢は、かつて岩根沢や本道寺とともに出羽三山へ向かう山岳信仰の行者達の休み場として栄えた宿場町であった。その後、大正十五年に三山鉄道が開通、その終着駅でもあったこと、さらに周辺にあった鉱山の労働者達も加わり賑わいは一層大きなものとなった。

 寒河江市白岩で百姓をしていた佐藤彦太郎氏は、その機を逃さず間沢に移り住み、出羽三山の表玄関にふさわしく六十里越街道筋の茶屋兼宿屋として「出羽屋」を創業した。

 二代目佐藤邦治氏はこの間沢で生まれ育ち先代を継いだ。山菜は地域では飢えを凌ぐための糧物だったり、少ない穀類の増量材だったり、時に香りと彩りに添えられたりと、ごく自然に食べていた貧しい食べ物であった。その山のものを「山のおかず」として提供したいと二代目は思い至り山菜料理を始めたが、初めは地元の人々から「頭がおかしくなったのでは」と揶揄された。

 しかし、当時はすでに三山鉄道も自動車に取って代わる時代で、月山までマイカーで行けるようになり、間沢も宿場町でなくなっていた。そこで二代目は店を山菜料理を中心とした業態に変えたのだが、今思えば地産地消の先端をいっていたことになる。観光ブームや健康食志向もあり出羽屋の山菜料理はますます評判を呼ぶようになった。

 二代目は、出版した『出羽屋の山菜料理』(求龍堂)で、「〝行者宿の山菜料理〟と〝糧としての山菜〟、この二つの出会いを通してはじめて山菜ととり組む自信ができたように思います」と書いている。出羽三山の山岳信仰を土台に山里で昔から食べていたものが料理として受け入れられたことや、山形から続く六十里越街道の宿場町として栄えたことをふり返れば、山菜料理は昔の面影をつないできた食文化そのものと言える。出羽屋はその山菜にこだわり、「お膳」にして料理として成立させた。

 

山菜と山菜料理の魅力とは

 月山山麓の山菜は五月から六月にかけて雪解けとともに麓から頂上へ向け旬の時期を重ねて移動してゆく。だから春の間はどこよりも長くいつでも旬な山菜を食することができる。また月山では山菜のピークの頃にちょうど同じ山形の名産サクランボが実りの時期を迎える。全国からファンがやってくる月山夏スキー(四月~七月)もあり、月山周辺の春から初夏にかけての観光は最高潮に達することになる。秋の紅葉の時期にはキノコが最盛期を迎え、冬のわずかな期間を除いて一年中、月山では山の味が楽しめる。

 山菜料理が山岳信仰の行者を泊めるために料理として始まったように、名物「月山山菜そば」もまた泊まり客の急な食事のために鍋に蕎麦を入れてもてなしたのが始まりであった。二代目邦治氏の発案で鉄鍋に地元産の蕎麦粉を使い、地元の町おこしにと特産品として広めた。

 山菜の魅力には、種類の豊富なことや自然の瑞々しい旬を味わえることなどがあるが、料理として格別なものにするには採る人、料理する人の特異な才覚がなければならない。出羽屋には〝採りつけの人〟と呼ぶ山菜名人がいる。「早いものには力がある」と、採り立ての山菜はその日のうちに提供。客はその一番を喜び、その季節でなければ味わえない醍醐味を楽しむことになる。三代目治彦氏の妻で女将の佐藤明美さんがひとふし山菜談義を聞かせてくれた。
「山菜を料理として扱うにはアク抜きなど味を崩さないようにする所がコツだと思います。山菜ごとに料理法も違い、同じコゴミでもアブラコゴミは煮物に、アオコゴミはおひたしにというように。また山菜には地域によって呼び名が異なることもあります。例えば、庄内ではフキノトウのことを〝バンケ〟、〝ミヤマイラクサ〟といえばアイコのことです。地域によって食べるか食べないかで呼び名が違ったり、地域ごとに山菜の楽しみ方がいろいろあったりするところが山菜の大きな魅力だと思います。」

 女将の語る様子には優しさの中に、山菜料理店としての伝統を守る誇りがあふれていた。

 

昔も今もこれからも、山菜づくしで

 そんな三代目女将の佐藤明美さんが天童から嫁いできた当時はバブルの時代で、町の山間の狭い道に車の行列ができるほど出羽屋も大いに繁盛したという。その後、新しく山形自動車道ができ、大きく交流人口の流れが変わってきた。そこで西川町の飲食店や宿泊施設の女将達が立ち上がり、三年前に「おかみの会」を結成、西川町の良さを町外に出向くなどしてPRしていく活動を展開している。

 山菜料理を始め「月山山菜そば」など女将の明美さんには山菜の良さや楽しさをもっと広めたいという思いがある。しかし、近年の自然環境の影響も気がかりだという。

「山が荒れているということをしばしば耳にします。伐採が進まず森に日当たりがなく、自然が自然らしくまわり切れていないのでしょうか。」

 そして、山菜をどう次世代につなげていくかが課題だとも言う。

 それに応えてくれているのが四代目の治樹氏(二八)である。若者らしく「自分達から春になりましょう」と呼びかけ、春の芽吹きの力を勢いに変換、三月三十一日を「山菜の日」と決めた。地元の若者同士、自分達から発信しようと四年前から活動をスタートさせ、山菜を知らない人にも山菜の奥深い味わいを体験してもらうイベントなどを展開している。全国から多くの問い合わせが続いているという。

 そうした活動や伝統がリピーターを創り出している。寒河江ダムの工事をしたお客が孫を連れて三世代でやって来て、息子さんが幼い時にも連れてこられた思い出を語って先代女将を喜ばせてくれた。また、外国人客が葉っぱに名前が付いていることや味も違うことなどに驚いて神妙に食べていた様子には、山の恵みを世界に発信しているようなスケールを感じて嬉しかったなど、お客のエピソードは数え切れない。

 月山は春の山菜、秋のキノコ、冬もかつてのように道路は閉鎖されなくなり、一年中全国から観光客が訪れるようになった。山形からも庄内からもちょうど一時間ほどのど真ん中。女将は泊まり客の朝ご飯を毎日自ら手づくりして出し、午前十時になればお客を見送る。「お客様に育てられています」と女将。宿泊ができて山菜料理と地酒が楽しめる行者達を迎えた歴史を持つ名店が「出羽屋」である。

 

(出典:『やまがた街角 第81号』2017年6月1日発行)


 

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