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津波

柚月 裕子

(ミステリー作家)

※一部表現・肩書き等に掲載誌発刊時点のものがある場合があります。


 私は三陸の出身だ。
 新日鉄の高炉が盛んに動き、町が活気に溢れていた頃に生まれた。
 両親も同じだ。父は山田町。釜石市から沿岸を北へ向かうこと、車で一時間くらいのところにある。漁業が中心の町で、浜沿いに防風林の松林がある。母は私と同じ釜石生まれで、八人兄弟の末っ子として生まれた。
 三陸の人間は、津波の話を聞いて育つ。自分の祖父母や親類、先祖の誰かを必ず津波で亡くしているからだ。
 私の曾祖父、菊地和七も、津波で亡くなっている。明治二十九年に起きた 三陸大津波だ。
 孑供の頃、父は私を膝にのせながら、自分の父親である菊地三右エ門から聞いた津波の話をしてくれた。
 父の話によると、和七は山田町で鰻の養殖を営んでいた。いずれあたり一帯を養殖場にして、一旗あげようと考えていたらしい。酒が好きで、毎日、晩酌は欠かさなかったようだ。
 その日も和七は酒を飲み、早くに床についていた。夕方から降りだした雨は強さを増し、夜には軒から落ちる雨音で、話声がよく聞こえないほどだった。
 夕飯を終えた頃、地震が起きた。
「大きな揺れで、まるで大男が手のひらで家を横にゆすっているかのようでした」
 そう語ったのは、和七の長女イシだ。当時、家には親兄弟含めて十人くらい住んでいたそうだが、助かったのはまだ十歳にも満たない私の祖父、三右エ門と、祖父の手を引いて高台に逃げた姉イシの二人だけだった。曾祖父を助けに行った曾祖母や他の者たちは、数日後、浦の浜で見つかった。

 

 三陸は地震が多い土地だ。震度一やニくらいの微震などめずらしくはない。
 地震が来る前触れは、寝ているときによくわかる。
 夜、寝入っていると、ゴウゴウ、という音で目が覚める。地鳴りである。布団のなかで「ああ、来るな」と思う。一分も経たないうちに、ぐらぐらと来る。
 多少揺れたくらいでは動じない。地鳴りの大きさで震度がどのくらいか、だいたい見当がついているからだ。大きな地震の広きは地鳴りも大きぐ、ゴウゴウではなく、ゴオウゴオウと地の底から響いてくる。小さな地震のときは、小石を手のなかで転がしているような軽い音だ。

 海がない地域であれば、地震が治まればそれで終わる。だが、浜や漁港がある町はそうはいかない。どんなに揺れが小さくても、昼夜問わず多くの者が浜へ向かう。
 海で生計を立てている者は、たった十センチの津波でも恐ろしい。船が港に打ちつけられて、壊れてしまう恐れがあるからだ。食い入るように海の様子を見て、少しでも波が引くと船を沖へ出す。
父は漁師ではなく会社員だったが油を扱っていたので、地震が来ると深夜でも港へ出掛けて行った。沖にいるタンカー船が座礁して、油が海に漏れたら大変だからだ。
三陸の人間にとって、海は暮らしそのものだ。津波で多くの命を奪われ、ときに時化で船を失っても、海から幸をもらい共存してきた。

 

 震災後、吉村昭の『三陸海岸大津波』(文春文庫/『海の壁』改題・中公文庫)を読んだ。
 父は昔から岩村昭が好きで、以前から「読め読め」と勧められていた本だった。うなずきながらも時期を逃し、今になってはじめて読んだ。
 そこには明治二十九年と昭和八年、昭和三十五年に起きたチリ地震によって三陸を襲った津波の記録が綴られている。当時、尋常小学校に通っていた子供たちが書いた作文が載っているが、文面から津波の恐ろしさと親しい者を失った悲しみが伝わってくる。
 本書を読み「自然を前にして、人間には現代も過去もない」と思った。そこに記されている記録はまさに今回の東日本大震災そのものであり、被害状況や大事な者を失った者の悲しみ、瓦礫となった故郷を目の前にして茫然とする人々の孤独が描かれている。時代は違っても、人々の嘆き、悲しみ、やり場のない怒りは変わらない。
 本書は、明治、昭和、チリ地震、十勝沖地震で津波を経験した、岩手県田野畑村の早野幸太郎氏の言葉で結ばれている。
「津波は、時世が変わってもなくならない、必ず今後も襲ってくる。しかし、今の人たちは色々な方法で十分警戒しているから、死ぬ人はめったにないと思う」
今回の東日本大震災で、田老町の十メートルを超す防潮堤も、ギネスブックに認定された釜石の湾港防波堤も崩れ去った。だが、津波から沿岸に住む人々を守ろうとして作られたそれらのものが、無意味だったとは思わない。
 津波で多くのものを失ってきた先人たちの祈りと願いが込められた防潮堤は、今回、多くの死者と行方不明者を出しながらも、津波到来の時間を遅らせ、大きな役割を果たしたと思う。

 

 平成二十三年三月十一日、海は国の、何十万人という人間の未来を示す羅針盤を飲みこんだ。生かされた者に、被災地の救援、復興、原発問題など、背負いきれないほどの課題を残した。現状は過酷だ。しかし、残された者は目の前に突き付けられた課題を、克服していかなければいけない。どのくらいの時間がかかるかはわからないが、それが残された者の使命であり運命だ。
 今回の震災で、私は両親を亡くした。親と実家を津波に飲まれた。海が憎い。憎くてたまらない。そう思いながらも、屹立とした岩が聳え立つリアス式の海岸や、緑の松林、悠々と空を飛ぶカモメ、どこまでも広がる海原を見ていると美しいと思ってしまう。私もまた、背負わされたものの重みを感じながら、今は亡き先人たちと同じように、故郷の海と共存していくのだろうと思う。

 

(出典:『やまがた街角 第57号』2011年6月1日発行)


 

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