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雪あそび

高橋 義夫
(直木賞作家)

※一部表現、寄稿者の肩書等に掲載誌発刊時点のものがあります。


 雪の日はできるだけ戸外に出ないようにしている。道路の除雪は車の利便を優先しているらしく、歩行者には不便でしかたがない。ぼくは以前、夜更けに凍結した横断歩道を渡ろうとして足を滑らせ、完全にあおむけになって尻から滑走し、あやうく車に櫟かれそうになった。雪の日の夜歩きは、危険である。

 

 歩くのも控えているくらいだから、スキーという遊びはしたことがない。そういうと、必ず
「スキーは楽しいですよ。雪国に住んでスキーをしないのは損だ。こんどわたしがつれて行きます」
と、いって来る人がいる。

 

 一度ことわっても、二度三度とすすめる。その人は親切のつもりなのだろうが、ぼくは同じことを何度もいわれると癇禮がおきるたちなので、しまいには怒り出してしまう。そんなふうにスキーをすすめる人が多すぎたから、こちらも意地になっているといえばいえないことはない。雪の急坂を板で滑るなんて、危険ではないか。

 

 雪国で冬を過ごしたはじめは、長野県の北部の山村で、二十年ほども前のことだ。西川町では冬にいたりいなかったりだったが、山形市に移ってからはずっと雪の正月を迎えている。その間、雪の日に、野外に遊びに出たことはない。

 

 長野にいたころ、スキー場に遊びにではなく、仕事に通ったことがある。落語家の快楽亭ブラックが、そのころは未だ真打(しんうち)になる前で、立川丹波守(たんばのかみ)と名乗っていた。師匠の立川談志が協会と仲たがいして、一時は寄席から締め出されていた。
「去年の正月は新聞に、クラブのホステスが三ヶ日の孤独に耐えかねて自殺したという記事が出たの、知ってますか。他人事じゃないよ。一人じゃ寂しいから、長野で一緒に正月を過ごしましょう」
と、手を合わせんばかりにいうから、そうすることにした。

 

 ただ炬燧酒で日を暮らしてもつまらないからと、ぼくがマネージャーとなり、スキー場の民宿やホテルの余興に、丹波守を売りこんで歩いたのだが、そのうちに北志賀スキー場のペンションの社長が、ゲレンデの近くに屋台の焼きそば屋を出しませんかといい出した。社長をまじえて三人で酒盛りをしながら、とらぬ狸の皮算用をすると、年の暮れから三月の春休みいっぱい焼きそばを売ると、二千万円の粗利益が見こめることになった。どういう根拠があったか、いまはもう忘れてしまったが、そのときはたしかに、まちがいない計算に思えたのだ。

 

 山分けして三ヶ月で一千万円も稼げることになるのなら、ぼくは安い原稿料で文章を書くのはやめるといい、丹波守も芸人は休業すると誓った。二人で手分けをして手配し、営業用の焼きそば用鉄板、バーナー、その他もろもろ買いそろえ、焼きそばやソースを仕入れ、テントを借りた。東京の業者は事情がよくわからないままにきりきり舞いしなから協力してくれた。ぼくは少なくとも二十五万円は投資した。

 

 ゲレンデの下にテントを設営し、椅子をならべて焼きそばを焼く。いい忘れたが、露天で商売をするからには、土地の露天商の親分には、一升瓶を持参して仁義は切った。手伝ってやるからいつでも声をかけてくれといわれたが、丁重におことわりした。

 

 露天の焼きそば屋は、けっこうおもしろかった。忙しい日には、バケツの中に千円の札束が山をなす。一人一千万円は夢ではないと思えた。

 

 ところが、半日雪の上に立っていると、自然と足腰が冷える。寒いから一日中酒を呑みながら商売をする。たちまち二人とも腹をこわしたが、丹波守はとくに重症で、ついに店を休み、トイレの戸の前に炬煙を置き、そこにもぐりこんで寝る羽目に陥った。炬煙から出るのは、トイレに行くときだけである。これではどうしようもないから、小康を得たのを機に露天の店をたたみ、東京にもどることにし、一人一千万円の夢はあえなくついえたのである。

 

 雪あそびの思い出といえば、それくらいのものだ。雪の日は戸外に出るものじゃないという、よき教訓である。

 

(出典:『やまがた街角 第4号』2002年2月1日発行)


 

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