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「三四郎」は、山形にゐた。

「街角」編集部

※一部表現、寄稿者の肩書等に掲載誌発刊時点のものがあります。


 今年の四月一日付朝日新聞の『天声人語』は――100年前のきょう、「わが国の文学界の明星が、近く本社に入社することになった。新聞小説に論評に、その才能を発揮することだろう。さて、誰であろうか?」と朝日新聞に載り、翌日、二の矢を放って、「新入社員は夏目漱石君」と明かした――と明治四十年の社告を記している。

 

 小説『三四郎』は、翌明治四十一年(一九〇八)九月一日から朝日新聞に連載が始まった。
 小説での三四郎は、九州の田舎から東京に出てくるが、希代の知識人といわれた河野與一は『続学問の曲がり角・「三四郎」で思い出す事ども』の中で――地方の高等学校を経て大学(東大という言葉はその頃使わなかった)に来た学生を「三四郎」と言うこと、特に熊本の五高から来たのは「本場の三四郎」と言うことを聞かされた。(中略)山高(山形高等学校)出身の英文学者藤島昌平君から「これは前に河野さんに話しましたよ」という前置で、夏目さんの早稲田南町のお宅の二三軒先に、ひと頃物理学者の田中三四郎という、後で山形高等学校の教頭を永くお勤めになった方がいて、夏目さんは出入りにその標札を眺めていた挙句、御本人の了解を得て主人公の名に使ったという話をした。田中さんには、私も先輩の岡本信二郎さんを山高に訪ねた時お会いしているかも知れない。残念ながら昨年(昭和四十年)お亡くなりになったそうだ――と述べている。

 

 田中三四郎教授の次女石垣綾子は、その著書『夫婦」に、「三四郎という父の名も、明治維新で没落した呉服問屋の、先祖代々つづいた、家の名だったそうです」「父は地方の学校で教えていたので、留守がちでした」と追想している。三四郎田中先生は、六高(岡山)から大正九年開校の山高に転じて以来、昭和十七年まで、山形で生活していた。
 東原町の官舎、冬はダルマストーブが置いてあったそうだが、独居生活を続けた山形との縁を思ったのか、石垣女史はのちに山形芸術学園の園長を引受け、屡々山形を訪ねることになる。

 

 小白川町の山形大学構内には、三四郎揮毫の「山形高等学校記念碑(山形高等学校四十年記念会)が建っている。
 敷地の北側を流れる笹堰に沿って、「せせらぎ水路散歩道」も整備されて、山形での一人暮らしの三四郎が歩いたであろう、この附近の逍遥をおすすめしたい。

 

 河野與一の文に出てくる藤島昌平さんは、山形高等学校第三回の卒業で、京都帝大に進み、学生生活を送った山形での勤務を望み、山形県立女子師範・山形第一高女(現西高)、ついで昭和十三年三月から十五年三月までは山形中学(現東高)で英語の教鞭をどられ、昭和十六年七月には岩波文庫で、性心理学で名高いハヴロック・エリス(一八五九~一九三九)の『夢の世界』の訳書を出して版を重ね、この名訳は平成七年にもリクエスト復刊された。現在満一〇二歳のご高齢で横浜にご健在です。
 山形中学で教えをうけた設楽隆氏(山形市在住)の要望にこたえて、このたび、田中三四郎先生の思い出を寄せてくださいました。九月には一〇三歳を迎えられる藤島先生の明晰な頭脳とすごい記憶力には、驚くばかりで脱帽してしまう。

 

小生の知っていること

 

 小生が、東京の中学生時代に教室で使用された物理の教科書に、「田中三四郎編」とあったが、山高に入学した時には教科書はなくて、その本人に教室で毎度教えを受ける事になったわけ。

 

 先生は或る時、教室の中へ朴歯の下駄を履いたままこれから始まるという物理の教室へ入って来た者があると、その男が白状して下駄をぬいでハダシの姿を見せる迄授業に入らぬと固い顔で教壇の中央から生徒をエラミつけてねばる。
 ガヤガヤしてるものの中から、先生が隣の研究室で直に聞かれたんだ、名乗り出ろと言うものあり、当人が立ち上がって「ケリ」がついた。

 

 三四郎先生は教室に入ってくると先ず黒板のあげおろしをして上下それぞれ中央にタテにスジを引く。山形高校は文科を英語・独乙語の二クラスとしていたから、物理は合併して「階段教室」でぎっしりつまっている。
 先生は左の方は英語で、右の方は独乙語でその日の講義の要点を板書してくれる。
 ある時Newtonの重力の話をしていて、黒板に半身にかまえた先生が、うっかり壇を踏み外して一、二段ころびかけた。その時ニッコリ笑って「これも重力の“シワザ”です」
 上級生の話によると、これは講義ノートに記してあるから毎年ここへくると、「三チャン」は踏み外すことになる。

 

 これからあとは某教授が筆になる三チャンの初印象だ。
 “僕を生徒に紹介してくれた先生はこの教頭である。物理学の理学士だから、赤シャツではないがそろそろ白髪になりかけている。
 歩き方まで機械的で、人格も直線的である。何処にも曲線というものがないから、こちらと交わる所がない。却って無関心でいることが出来るわけである。芭蕉の『閑かさや岩にしみ入る蝉の声』という句を味うにも物理学的の立脚地を出ることが出来ない為、此の句の価値を否認する先生であるときいては寧ろ世話なしの気もする”

 

 先生に子どもさんが幾人いたか知らないが、長男が小生と同期の山高理科甲類に入学して、東大卒業後当時の専売局に勤め、定年退職後は業界の幹部に転じて活躍したという。石垣綾子というのは次女で、そちらの方は執筆家だから色々本があるから、それで調べてくれたまえ。新聞か雑誌に「早稲田南町時代のこと」をかいた文の中に、石垣綾子さんの姉が力 バンを放り出して夏目家の筆子さんのお招きに応じてかけてゆく後から私も入れてくれとバカリに下駄をつっかけてゆくところあり。

 

 山高創立四十年記念祝賀会というのは何年かに行われたが、その時弁護士の山口弘三君(六回生)が実行委員の一人で建碑係とかで、揮毫は大正九年から昭和十七年定年退職まで教頭の椅子を独占していた田中三四郎さんにお願いすると決まったという。先生はこの二十何年という間山形で独居生活で、休暇の間だけ東京の早稲田南町の家族と行き来をしていたという。
 小生は当時中央大学で語学教師をしていたから、週に一度講義に来られる田中先生に教授控室で会う。先生は奥さんが付添うておらるるのは、先生八十歳を越えているからだ。
 いつの間にか南町から湘南の片瀬の別荘へと移っていらるると承っていたので、道順を伺って、約束の日に山口君同道、碑の大きさ、いつ迄という期限を申しあげ、和紙を置いて帰る。七里ヶ浜のつきるところ、斜面のベランダから江の島が眼前に。
 先生から、「南町の途上、散歩の漱石先生によく出会って会釈を交わした。今度新聞にのせる小説の主人公の名と題名は 『三四郎』とお宅の標札を使わして頂くかも知れぬがお許し頂けるかの話はそういう出会いの一コマであった」と語られたのもこの時か、或いは出来上った碑文の書をわざわざ横浜の拙宅までお届け下さり暫く一服された時かである。

 

 残念なのはそれから幾ばくも経たぬのに、先生の体調不調で山形への御同行は取り止めとなり、小生だけで建碑式に出たこと、そして間もなく先生の計報を耳にしたこと。

 

(出典:『やまがた街角 第37号』2007年8月1日発行)


 

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