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藤沢周平で終わる話

服部 公一
(作曲家)

※一部表現、寄稿者の肩書等に掲載誌発刊時点のものがあります。


 秋の夜長は夜話に通じる。これは未来の話にはなりにくく、やはり昔話ということに落ち着くのである。

 

 太平洋戦争はもはや日清、日露戦争のように歴史上の事柄になってしまったのだろう。十二月八日はもちろんのこと八月十五日すら今の若者は特別な歴史上の期日として認識するべき項目になってしまった。私にとってあの戦争は大東亜戦争という呼び名で「ちょっとこないだ」の出来事という感じなのだ。昭和二十年八月十五日山形市のクソ暑かった日ざしまではっきり知っていて、あれは歴史上の事実どころか生の記憶として生きている。

 

 須貝哲也くんはあの頃山形師範男子部付属国民学校六年、私の同級生だった。彼はいわゆる優等生タイプではなかった。同じ学級には県知事や旦那衆の子どもがあふれていてお坊ちゃん優等生はたくさんいたし、彼も工業試験場長の息子だからその資格?は充分だったのだが見かけからして一線を画していた。キリッとした風采ではなく、いつもざっかけない服装の少年であったが、きかん坊ではなく、算数大好き、理科抜群の子どもだった。

 

 終戦直後に山形工業学校(現山形工業高校)の正門前に旧海軍航空隊の練習機(赤とんぼ、のあだ名の単発複葉機)の残骸が積み重ねられていた。そこは須貝君の通学途上であった。ちょうどその頃六年生は理科でモーター作りをやらされていたのである。彼はあの練習機の残骸から失敬してきた部品、コイルや配線などを利用して見事なモーターをつくった。一見不細工な廃品利用作品なのだが力強く回転する、我々の作品がかっこだけは出来ていても一向に回らないのと対照的であった。

 

 彼は山形東高校からストレートで東大の工学部に進んだ。同期の優等生たちが何人も不合格だったのに見事にパス出来たのは数学の試験が満点だったからだ、とはもっぱらのうわさであった。それもそのはず高校の数学ではあきたらず、山形大学の柳原吉次先生のところに直接質問にいったりしていた、ということを柳原孝一くん(吉次先生の子息、本人も数学の先生)から聞いたことがある。須貝くんはその後大学院に進み、新日鐵研究所で研究をつづけた我が国一流の研究者、工学博士である。この須貝くんの家にあの頃何故か、かの故藤沢周平氏が下宿していたことがあると言うから面白いではないか。

 

 小菅留治氏(藤沢氏の本名)は昭和二十一年に山形師範学校に入学している。彼はその後下宿をかわり、寺町の善龍寺にも住んで居られたそうである。ここも又私の付属小学校の仲間、岡隆弘くん(現住職)の家である。須貝、柳原、岡、服部、は小学校で机を並べていた同級生なのであった。

 

 藤沢氏の作品にはいつも庄内が出てくる。作中の「海坂藩」とは庄内藩のことだと承知して愛読していた。彼の作品は私の創作などと異なり一作一作全力投球で駄作がない、その作品をつづけて読んでいると疲れる。どの作品も、と言ってそんなにたくさん彼の作品を読んだわけではないのだが、息つく隙がない、引き込まれて呼吸困難になりそうな充実感なのである。若い頃に大病をしたこともあってであろう、彼はマスコミにお出にならない、ということを聞いたことがあった。

 

 二十年ほど前である。私は紀尾井町の文藝春秋社の広いサロンで編集者を待っていた。私の席から反対側はるか向こうの窓際で藤沢周平氏が編集者と打ち合わせをしている姿を遠望した。その編集者が私の知り合いだったから口をきいてもらって厚かましくも初対面の挨拶をしよう、と思っていたが当方の相手が到着し、あちらがその間に席を立ってしまわれそれは実現しなかった。文春の大忘年会などで気を付けていたが、その種の軽薄な?集まりでは決してお見受けできなかった。

 

 その内に私が載せてもらっていた「やまがた散歩」誌に藤沢周平氏が寄稿してくださるようになった。編集長の高橋正司氏から「藤沢さんが貴方の連載をたのしく読んでおられるそうですよ」と聞いて嬉しいやら恥ずかしいやら、早速拙作の室内楽のCDを謹呈した。さすがに随筆集を差し上げる心臓は持っていなかったのである。その返事のハガキを今も大事にしている。もう一度今度は文春の本誌に載った拙作随筆の感想のハガキも拝預したのだった。是非その内拝眉の折りをいただきたいと思っている内に平成九年逝去された。

 

 つまり私は藤沢周平氏とはお目に掛かったことがないのだ。

 

 高坂知甫(耳鼻科医、山形の交響楽運動創始者)の亡き奥様の法要のために鶴岡市郊外の高坂家の菩提寺に参ったことがあった。そこは昔高坂家の所領だったそうで集落の名前も「高坂」であった。そしてこの高坂集落の農家の次男として生まれ育ったのが藤尺周平氏。高坂先生の父上は日露戦争にも従軍した中佐だか大佐だか、つまり職業軍人であったという。酒井藩の武家の流れだったのであろう。それこそ藤沢周平氏が好んで題材にした海坂藩の武士群像のひとりではなかっただろうか。

 

 秋の夜長の夜話は連綿とつづいてとまらなくなった。この辺で一段落とさせていただく。

 

(出典:『やまがた街角 第8号』2002年10月1日発行)


 

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