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旅籠町今昔 のし梅

市村 幸夫
(村山民俗学会)

※一部表現、寄稿者の肩書等に掲載誌発刊時点のものがあります。


 「のし梅」は山形を代表する菓子の一つとなっている。元治元年の「最上名所名産名物番付」では「山形のし梅」として登場する。写真師の菊池新学は「萬手扣帳(控帳)」の明治二十九年十一月十四日の項に「土産のし梅一箱持参」とある。

 

 この「のし梅」はいつ誰の手によって考案されたか定かでない。通説は「文化年間の山形旅籠町に小林秋谷という画家がいた。彼は医師小林玄端の分家に生まれ、文化十三年のとき江戸へ登り、伊勢長島藩主増山雪斎の巣鴨にある江戸屋敷に仕え画を学んだ。文政二年雪斎の死により山形へ帰り、六日町天然寺の境内に庵を結び、文政十年三十五歳で没した。」長島藩には賀詞帳が残され、庄内藩の白井重行・渡部種徳・重田道樹が賀詞を寄せており、藩主増山雪斎は庄内藩の藩士や文人と交流を持っていたことが分かってきた。「秋谷は江戸のみならず長崎に赴き研鑽したようで、その際梅の実から梅露(梅醤)と称する暑気払い薬の製法を習得し、帰形ご近所の八百屋草刈伊兵衛に伝授販売せしめたのが熨斗(のし)梅の起こり」だという。
 

 秋谷が長崎まで行った史料は無い。小林玄端の墓域にあった秋谷の墓碑に秋元藩医師萩原赤城が履歴を書いているが長崎のことには一言も触れていない。秋谷が山形にのし梅の製法を伝えた史料には行き着かないが、江戸にて長島藩主増山雪斎に師事した際、雪斎と密接な関係にあった本草学の木村兼葭堂(きむら・けんかどう)から、のし梅製法を習った可能性も考えられよう。

 

 安政二年の「東講商人鑑」に「かすがへ小路 新製甘雨梅のし梅八百屋伊兵衛(屋号は〇伊)」とある。現在の山形新聞社の西向かいに旧山形城三の丸の鍄口(かすがいぐち)があり、鍄小路と称した小路があった。また明治三年の旅籠町絵図には「熨斗梅丸伊屋伊介」とあり、通説のうち「のし梅」を製造した八百屋草刈伊兵衛の存在は確認されたことになる。そしてその時期は、小林秋谷が江戸より帰ってきた文政二年(一八一九)以後の事としておきたい。

 

 ところが新しい史料が見つかった。尾花沢柴崎家に伝来するもので県立博物館所蔵の「玉手筥(たまてばこ)」と題された古文書である。表紙には「寛政十一月吉祥日」(一七九九)、裏表紙には「御用御菓子司 足利屋」とある。「のし梅」製法の項には「寛政十歳午八月十八日、於御階御役所、御用御菓子屋被仰付候、同未七月御帰城八月十五日献上之御菓子左之通三品也、上ノ重 菓籠 箱サシ渡シ壹尺、下ノ重 栗の粉餅 石竹餅、但シ箱杦のぶっさき、台同断白木ニ而仕候、のし梅之法 本家七右衛門傳」とある。

 

 要約すれば、菓子の足利屋は寛政十年、秋元藩の御用達の菓子屋となり、のし梅の製法は足利屋本家の七右衛門から伝授された、という内容である。献上した足利屋はどこの菓子屋なのか、足利屋の本家七右衞門は誰か、これらを考えてみたい。

 

 古文書「玉手筥」は山形足利屋から尾花沢柴崎家へと渡っているが、「東講商人鑑」には「尾花沢薬種店 柴崎弥左エ門」とあることから、柴崎家は紅花商いのみならず、薬種商として地域に根ざした商売をやっていたようで、同書の「はたご町和漢薬種所 足利屋七右衞門」と同じ商売であったことが分かってきた。同じ薬種商としての付き合いで古文書の移動があったのではなかろうか。

 

 秋元藩御用達の菓子屋足利屋が特定できない。それを想起させる史料に明治三年の旅籠町絵図がある。「菓子売小林喜左衛門」とあるのがそれである。最上氏の改易により小林七右衞門玄端は民間に転じ薬種商を生業とし、店の名を玄丹と称し盛業した。分家や暖簾分けを受けたものは足利屋を名乗った。風五の家も代々喜左衞門を名乗る分家の一つであった。元禄年間に本家玄端の向かい側に屋敷をもち、呉服・小間物などをあつかい繁盛し、屋敷も広く大店であったとされるが、幕末には屋敷も縮小し菓子屋商売になっている。喜左衛門家が呉服・太物商いであったとする史料はなく、また風五の句集「水蛙集」にも商いがわかる記述はない。「玉手筥」に菓子の製法を書き残した「足利屋」を、風五を祖とする喜左衛門家と想定したが、どうであろうか。

 

 従来伝えられている説と相違し、秋谷が本家七右衞門に伝える前に、七右衞門はのし梅の製法を得ていたことになる。しかし「のし梅」の発祥の地は旅籠町に変わりはない。

 

(出典:『やまがた街角 第83号』2017年12月1日発行)


 

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