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いつも私のなかに山形があった

小林 茂
(映画監督)

※一部表現、寄稿者の肩書等に掲載誌発刊時点のものがあります。


 山形国際ドキュメンタリー映画祭がやってくる。ワクワクする。開催日が決まると、スケジュール帳に書き込み、そこには用事を入れないようにする。こうして、私は第一回目から今まですべての日程に参加してきた。

 

 私はこの映画祭に育ててもらったと言っている。というのも、若いスタッフたちで三年間の合宿生活を経て、新潟水俣病の舞台となった阿賀野川に生きる人びとを描いた『阿賀に生きる』という作品がスタートした一九八九年に映画祭が始まったからだ。私は撮影を担当した。それまで写真撮影と助監督の経験はあったが、16ミリ・フィルムの撮影ははじめてであった。何をどう撮影をしていったらいいのか、漠然とした日々が続いていた。

 

 そんな秋ロであったと思う。隣の山形で「国際」ドキュメンタリー映画祭か開かれるらしいという情報が入ってきた。三十代を出たばかりの佐藤真監督はフットワークも軽く、「みんなで見にいこうじゃないか」ということになった。た。しかし、宿に泊まるをもない。ポンコツ車にテントを積み込んで県境の山道をえっちらおっちら越えて、山形市に向かった。中心の近くの川原を探し、橋の下にテントを張った。夕暮れだった。今、思えば、馬見ヶ崎川の双月橋の下だったのではないだろうか。同しような貧乏グループがいた。いや、失礼、貧しいながら志の高いグループと言い直そう。彼らとその夜、興奮しながら、暗い中で酒を飲んだことを覚えている。

 

 さて、何で興奮していたか。それはオープニング上映を見たからである。色とりどりのフィルムがからまった写真を表紙にしたカクログを手に、山形市中央公民館の六階の大ホールに入ると、そこには、別世界か広がった。世界各地から来たドキュメンタリストたちがいる。あらゆる言語が飛び交う。コンべのグランプリはドキュメンタリー映画の父といわれる人の名をつけ、ロバート・フラハティ賞。そして、山形市長の挨拶。「そうか、山形市政一〇〇周年事業の一環なのか。型通りの式典で終わらせるところを、世界に自分たちの意気を発信していこうとしている。なんてすごい街なのか。市民なのか」。

 

 そして、上映作品はヨリス・イベンスとマルセリーヌ・ロリダンの監督・脚本による「風の物語』。ヨリスはこの年の六月に亡くなってしまって、来形できなかった。なんと、九十歳を越えているではないか。

 

 いま、こうして、ロバートだ、ヨリスだなどと、わかったようなことを書いているが、恥ずかしながら歴史に残る彼らの名前など知らなかったのだ。そもそも世界のドキュメンタリー映画をそう見ることはできなかった。それが山形に来た理由である。今、日本で盛んに世界のドキュメンタリー映画が紹介されるようになったのも、山形の貢献が大きいと思っている。

 

 『風の物語』は監督のヨリスたち撮影隊が、「風」を撮影しようと、中国の砂漠にやってくる。ヨリスは高齢ながら元気である。白いマフラーを巻いて、風を待っている。そして、彼を心配しながら見守る京劇の猿を狂言回しに、中国の歴史を縦横に走り、時には映画史の中にヨリス自身が迷い込む。『月世界旅行』のスタジオセットに監督自身が黒いマントを着て立つ。こんなのドキメンタリー映画にありか? でも、かっこいい。そもそも監督か砂漠で風を待つなんていう設定はありか? なんでもありじゃないか、「映画」なんだから。こんな作品を九十歳の人間がつくる自由さ。35ミリ、カラー、八十分の堂々とした作品を遺作としてヨリスはわれわれの前から立ち去った。「さあ、これからは君たちの番だ」と言わんばかりに。それまで抱いていたドキュメンタリー映画の「常識」は根底から揺さぶられ、ドキュメンタリー映画のすばらしさと広がりに呆然として、私はしばらく座席から立ち上がることができなかった。

 

 山形映画祭の特徴は現在の「世界」が見えることだった。このころは東欧社会主義体制の崩壊にまつわる作品が多かった。昨今、中国からの作品が注目されているのは中国社会が変容しているからだともいえる。第八回のグランプリは王兵監督の「欽西区」。九時間を越える大作にして自在。テレビや新聞では感じ取れない中国社会の人間の肉感が時代とともに描かれていた。うーん。すごい。われわれはうなるばかりでいいのか!

 

 そうそう、忘れるところだった。私はベストワンとも言える作品に出会った。チリのイグナシオ・アグェーロ監督の『一〇〇人の子供たちが列車を待っている』。軍事政権下、貧しいチリの子供たちがワークショップで映画作りを教わって目が輝いてくるのだ。「ドキュメンター映画には未来がある」。

 

 「日本ドキュメンタリー映画の黎明」と題した映画群を見るのも忙しい。映画祭の発足に尽力した小川紳介さんも、土本典昭さんもいる。そして、アジアの作家たちによるティーチイン。これが後の「アジア千波万波」につながった。今や映画祭の華に育った。私たちは会場を走り回った。ご飯を食べる時間も惜しんで。そのくせ、夜は安く飲める交流会場で気勢をあげ、上映作品の監督を捕まえては質問攻めにする…のだが、語学が追いつかず、出てくる一言葉は「ワンダフル」である。硬く握手。もちろんイグナシオ監督には、他とは違い「べリー、ワンダフル」である。

 

 さて、『阿賀に生きる」である。私たちは山形からもどって、ありのままの人の暮らしを撮っていけばいいのだと気づいた。田んばにへばりつき、川とともに暮す日常をたんたんと、されど、スタッフ間ではロ角泡を飛ばしながら、撮影した。そして、胸が熱くなるようなシーンは実に目の前の何気ない日常に展開されたのである。

 

 一九九一年の第二回目には市民グループである映画祭ネットワークの人たちが『阿賀に生きる』の現場を訪ねてきてくれ、「編集途中でいいから作品をもってきてほしい」と言ってくれた。映画祭で映ったわが映画に興奮した。それから帰って、スタッフ一丸となって編集、完成。そして、一九九三年の第三回には、あろうことか、コンべにノミネートされて、われわれはあこがれた「世界」と肩を並べたのだ。その上「優秀賞」。佐藤監督が壇上に呼ばれたとき、涙が出るほどうれしかった。

 

 もう、紙面がつきてしまう。なんということか、まだ、映画祭の歴史の初めの部分をかじっただけではないか。すみません。

 

 山形がうらやましい。本当だ。だって、この映画祭は世界の人が認める世界最高のドキュメンタリー映画祭なのだ。引っ越すなら山形と公言してはばからない。この映画祭を通して、たくさんの市民と友達になった。まもなく映画祭がはじまる。今年はとくに待ち遠しい。私の監督作品『わたしの季節』(二〇〇四年毎日映画コンクール記録文化映画賞作品)が「最新日本ドキュメンタリー特集」の中で上映されることになったからだ。ぜひ、ご高覧いただけるよう、この場を借りて、ちゃっかり宣伝する。

 

(出典:『やまがた街角 第26号』2005年10月1日発行)


 

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