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デンキブランと栄玉堂–––フランス・ボルドーに渡った神谷伝兵衛のことなど–––

青山 三五朗
(エッセイスト)

※一部表現、寄稿者の肩書等に掲載誌発刊時点のものがあります。


 東京・浅草一丁目一番地。スカイツリーを望む吾妻橋のたもとに佇む、日本最初のBAR「神谷(かみや)バー」。そして創業一五〇年の歴史を刻む、山形市旅籠町の菓子店「栄玉堂」。この二つの老舗の結びつきを知る人は少ない。

 

 山形市「旅籠町一番組商店街」。誕生して一〇〇余年を数えるこの歴史ある商店街の一角に「栄玉堂」がある。「栄玉堂」の創業は明治以前。創業当初から「砂糖蔵」と黒塗りの「店(みせ)蔵」の二つの立派な蔵がその存在感を放っていた。現在の当主「小林一三」は創業者「小林二八」から数えて七代目となる。代々受け継がれている人気商品「きんつば」と「どら焼き」。その味を守りつつ、今は「モンブラン味」「ラ・フランス味」など季節に応じた新しい味を加えた「どら焼き」を楽しめて、多くのファンに親しまれている。平成十六年に建て替えた現在の店舗は広々とした駐車スペースと、ガラス面を多用した明るい店舗。開店の時間ともなれば、待ちきれないお客の列が出来る。朝の日射しが射し込むそのモダンな造りの店舗の片隅にひときわ目につく大きな純銀製の置時計が、静かに時を刻んでいる。初代当主「二八」の次男「伝蔵」、後の二代目「神谷伝兵衛」が明治三十年、フランス・ボルドーから持ち帰った土産を実家にプレゼントした記念の品である。

 

 ここに日本に本格的なワインの醸造技術を導入したことで知られる「神谷伝兵衛」を書いた一冊の書籍『神谷伝兵衛』(筑波書林・鈴木光夫著)がある。その中には次のようなくだりがある。「子供のいなかった『伝兵衛』は明治二十七年、山形市旅籠町『小林二八』の次男で、上京後働きながら神田の「芳林塾」を卒業した好青年「小林伝蔵」を養嗣子として迎えた。」この時「神谷伝兵衛」三十八歳、「伝蔵」二四歳。二人の歳の差は僅か十四歳しか離れていなかった。「神谷伝兵衛」は葡萄栽培からワイン製造まで、日本人が一から作る国産ワイン製造を成し遂げた立志伝中の人物であったが、自身の事業を継承させ、更に拡大を目指すにあたり、親子というよりは事業のパートナーとして「伝蔵」を迎え入れたという推察が自然だと思う。その見立ては養嗣子として迎え入れた後の二人の足跡を見れば理解できる。

 

 驚くことに「伝兵衛」は「伝蔵」の婚儀を終えたその僅か三日後、すなわち明治二十七年九月二十四日、古くからのフランス最大のワイン生産地ボルドーへと旅立たせている。「伝蔵」は日本を出発してから二ヶ月半後の同年十一月に地中海沿岸のマルセイユに上陸したのちボルドーを目指した。フランスでの研修は三年に及んだ。「伝蔵」は持ち前の旺盛な研究心で、葡萄栽培の方法、器具の使い方、醸造方法を会得した。帰国に際しては多数の参考書、醸造器具、土壌サンプルはじめ、ワイン醸造に必要なもの全てを持ち帰った。見ず知らずの地で三年間にわたる研修を終えた「伝蔵」の帰国に際し、研修先がその記念に贈った品物、それが純銀製の置時計なのだった。

 

 「伝兵衛」は「伝蔵」の帰国を待ち、フランス・ボルドー原産の葡萄の苗木六千本を輸入。茨城県牛久に「神谷ぶどう園」を開園、早速葡萄栽培を始めた。「神谷ぶどう園」は「伝兵衛」の強固な意志と養嗣子「伝蔵」のたゆまぬ努力とで、後に「神谷シャトー」と改称し事業は発展を遂げていったが、大正十一年、「神谷伝兵衛」は「伝蔵」を残し六十六歳でその先取の精神に富んだ人生に終止符を打った。

 

 「伝蔵」が二代目「神谷伝兵衛」を継承したのは五十二歳の時であった。二代目「神谷伝兵衛」は、その後大正十三年には神谷酒造他三社により「合同酒精(株)」を設立した。「合同酒精(株)」となり時代も昭和に入ると、二代目「神谷伝兵衛」は更に生産を拡大すべく、葡萄栽培に適した地を国内各地に求めていくことになる。その候補地の一つが当時から葡萄栽培が盛んだった山形県置賜郡赤湯町(当時)であった。赤湯町には昭和七年に特約栽培の打診をしており、同十一年には「合同酒精赤湯工場」が開業している。この赤湯工場の誘致にあたっては、赤湯町長以下有志は、同地出身の当時日本興業銀行総裁、のちの大蔵大臣・結城豊太郎を通じ、二代目伝兵衛に対し、熱心な申し入れを行なったのであった。しかし奇しくも伝蔵の郷里、山形の地に醸造工場開業のこの年、赤湯工場の稼働を見届けるかのように、二代目「神谷伝兵衛」はその六十七年の生涯の幕を閉じたのであった。

 

 その後も「合同酒精(株)」は山寺地方(現・天童市荒谷)にも醸造所を建設しているが、昭和後半までにはどちらの工場も閉鎖している。赤湯工場内にあった屋敷神社は当時の工場長、笠井さんにより烏帽子神社に遷座されていて、今でも当時の関係者が時折参拝に訪れている。赤湯工場のあとを追って閉鎖された山寺工場跡は現在更地となっているが、当時管理人として工場関係者の世話をしてきた「高井トメノ」さん宅の物置には大きな「蜂マーク」の看板がある。当時、山寺工場の正面に掲げられていたブリキ製の看板だ。工場取り壊しの際「ばあちゃんの思い出に…。」と工場の従業員みんなから贈られたものだった。赤湯も、そして山寺も当時から葡萄の一大産地であったことに違いない。ただ、遠く故郷を離れた二代目「神谷伝兵衛」がこの二つの地を工場建設地に選んだ背景には、強烈な郷里への郷愁があったのではないか。

 

 「伝蔵」には十二人の子供たちがいた。伝蔵の死後、まもなく太平洋戦争の戦禍は東京にまで及び、幼い子供たちの何人かは当時、工場長だった笠井さんを頼って東京を離れ赤湯に疎開している。疎開中は赤湯で一緒に遊んだり、終戦を迎え、東京に戻る際には赤湯の駅舎まで「伝蔵」の子供たちを見送った日のことを、いまも旅籠町に住む伝蔵の姪「市村伸江」さんは、懐かしそうに話してくれた。

 

 「神谷伝兵衛」が浅草吾妻橋のたもとに、酒の一杯飲み屋「みかわ屋」を開店したのが明治十三年。独自の製法で人気を博した名物「デンキブラン」が登場したのが明治十五年。その後、明治四十五年に店舗を浅草初の鉄筋コンクリート造に改装。店舗には日本で初めて「BAR」という名称を用い、屋号を「神谷バー」とした。この時「伝兵衛」五十六歳、「伝蔵」四十二歳であった。

 

 「神谷バー」は明治の創業当時から今も変わることもなく多くの庶民に愛され続けながら、浅草の街を見守っている。遠く山形の地を離れ、国産ワイン作りに生涯を懸け、そして大正、昭和、平成と時代を超える下町の社交場「神谷バー」を残した男「小林伝蔵」、後の「神谷伝兵衛」。そんな男のロマンに想いを馳せつつ、今宵「デンキブラン」のグラスを傾けようではないか。

 

(出典:『やまがた街角 第71号』2014年12月1日発行)


 

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