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深い秋

宮川 俊二
(ニュースキャスター)

※一部表現、寄稿者の肩書等に掲載誌発刊時点のものがあります。


 六月、僕はベトナム、ハノイの旧職人街、三十六通りに立っていた。目の前をビービーとクラクションを鳴らしながらバイクが通り過ぎていく。風船売りの少女達が道の真ん中まで出て甲高い声を上げている。黄昏時、雑貨屋さんは店の奥まで商品を並べ、白熱光が赤々と照らし出している。日本の昭和三十年代のような郷愁をよぶ光景だ。

 

 ベトナムは今、観光ブームに沸いている。特に日本人の増加が顕著で、毎年五割増し、今年は三十万人に達するとみられている。国営ベトナム航空は、この機に成田からハノイ直行便を新たに運行することになり、PRのためFMでハノイ企画四本を放送することになった。僕は今年初め、この十数年のベトナムの変化を出会ったひとびとを通して描いた「アオザイの国へ」という本を出版していた。そんな僕を代理店のひとは案内役として適任だと思ったようだ。

 

 番組のタイトルは「シンチャウ、ハノイ」「こんにちはハノイ」という意味だ。さてハノイの魅力と言っても四回も話すネタがない。去年十月にも出掛けているが変化の激しいベトナムでは情報はすぐに古くなってしまう。そこで僕はFMだからを音いっばい入れたリポートにしましょう、録音機を持ってハノイに行きましょう、と提案した。僕は最近の放送に不満があった。音声メディアなのに、音を大事にしていない。情報は言葉だけだと思っているのではないか、空疎なおしゃべりばかりが耳障りだ。音から広がるイマジネーションの世界。とは言ってもFMではそれだけの予算がない。僕は自分で雑誌などの取材もとりつけて費用を捻出し、ハノイまでやって来たのだった。

 

 DATのWALKMANは手のひらに乗る大きさだ。しかし、なんとクリアーな音だろう。広角百二十度に設定したステレオの集音マイクは右に左に流れ行く音の洪水をリアルに拾い集めてくる。出掛ける前、周りの人は、録音構成ができるんですか、と意外そうだった。テレビキャスターのイメージと録音機はなかなか結びつかないようだった。何を言っているんですか、僕達の世代は皆、ラジオの録音構成から始めたんですよ。久々に現場の手触りを楽しみながら、思いは仕事のスタート地点である山形時代に遡るのだった。

 

 初めての全国放送は忘れられない。僕は一九七〇年の秋、最上郡真室川町の釜淵という集落にいた。ラジオ第一放送で夜十時台に放送していた「若いこだま」の取材のためだった。ラジオといっても全国放送ともなればディレクターがいて、車は山道に強いジープをベテランドライバーが運転する、そんな時代だった。

 

 山形の秋は深い。すっかり紅葉した山道を走りながら僕はこの思いにとらわれていた。もちろん僕の育った四国にも秋はある。しかし、こんなに全山が紅葉し、夜は深々と冷え、秋の色をさらに濃くし、やがて冬に覆われるという深さは初めて体感するものだった。

 

 最上の奥、秋田県境に近い釜淵も他の農村と同じように過疎に悩んでいた。しかし、青年団の人達は公民館に集まって明日の村作りを語り合っていた。若い人には若い感覚でインタビューしたほうが良いと、僕が初めての全国放送に抜擢されたのだが、どんな話を聞いたのか今では全く記噫にない。おぼえているのは村には旅館などないと泊めていただいた旧家の囲炉裏端でばちばちとはぜる薪の音だ。ベテランディレクターから取材の心得を聞いているうちに酔いつぶれ、時折戻る意識の中でその音を聞いていた。

 

 翌朝、小高い丘から見下ろすと農家の庭先で柿の木がいっぱい実をつけていた。僕の実家にも井戸端に一本の柿の木があった。それは、毎年どの木よりも美味しい実をつけていた。脆い技先の実をとるのは少年の僕の仕事だった。僕は急にセンチメンタルになり、周りに誰もいないのを確認して「秋でもないのに」を口ずさんだ。何という軟な取材者だろう。就職して半年、放送の現場は思っていたほど甘くはなかった。アナウンサーとしての将来に不安を感じ、遠矩離恋愛の彼女ともぎくしゃくし、故郷も人も恋しく、そんな思いがロをついて出たに違いない。

 

 釜淵のあの柿の木はまだ実をつけているだろうか。当時の若者も五十台の半ばを迎えているはずだ。農村を襲った三十年の荒波をどう乗り切ってこられたのだろう。

 

 深い秋に、自分の仕事の原点だったあの村を訪ねてみると、これからの自分が見えてくるのかもしれない。

 

(出典:『やまがた街角 第8号』2002年10月1日発行)


 

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