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芋煮考/前進座との芋煮夜宴

芋煮考

杉浦 登

 

 芋煮の事始めを探ねれば、はや百数十年前の江戸末期にさかのぼる。里いもはもともと南方亜熱帯が原産で、古くから日本に伝来されていた。ただ、腐れ易く長持ちしないので、冬も間近になると、一気に処分しなければならない。そこで、各家庭では秋の野遊びを兼ねて、町内会や学校の児童たちは里いもとネギ、コンニャクなどの具と薪・鍋を持ちよって、河原や山里に出掛けて芋煮会を催した。長い伝統の庶民の楽しい野宴である。

 

 山形の芋煮はいったい何時頃から始まったのか、確かではないが、戦後食味評論家として、全国でも名の知れた斎藤仁氏(故人)の説によると、江戸末期からとのことである。山形市七日町(現大沼デパート)出身の和算の大家会田算左ェ門安明(一七四七・延享四〜一八一七・文化四)の手控帳に芋煮のことが書き込んであったという。

 

 むかし町内会は町内の冠婚葬祭を取り仕切ったほか名主は旅行手形も発行したといわれたほど、権威ある組織であった。収穫の終わる秋一回、町内の契約があり、その直会(なおらい)にはそれぞれ里芋を持ち寄り芋子汁をつくって酒宴を開いたという。その添え具にはネギとコンニャクぐらいは入れたという。その芋子汁に牛肉が入るようになったのは大正の十年前後からだという。

 

 霞城連隊(陸軍歩兵三十三連隊)に入隊していた士官候補生(氏名不詳・大山の酒造家)が、日曜の外出日に部下兵士を連れて、馬見ヶ崎河畔で芋煮の宴を張り、その折牛肉を入れたと伝えられている。そして、何時の頃からか小学校の児童たちも、学区内ごとにそれぞれリヤカーに薪や鍋をつんで河原に出かけては芋煮を楽しんだようである。

 

 会田算左ェ門のことを付記しておく。十六歳の時、江戸に出て幕府に出仕した。幼少の時より和算に通じ、その後ばらく江戸周辺の河川改修や設計などに従事したが、致仕して野にくだり、和算の研究に専念した。その収積は二千冊にものぼったという。その内に「算法天生法」「重乗算顆術」などがある。その頃の和算界は、幕府側の官学は“関孝和”派で、一方民間派は会田が指導する“最上(さいじょう)”派の二つの流派に分かれていた。最上商人は算左工門に師事し、紅花の取引に当っては、算左ェ門が試算をした、今で言う損害保険のようなものを京・大坂の受荷側と取り交わした。荒れ狂う日本海の北前船のことであったから、商人たちは大いに救われたという。

 

 芋煮の伝来にもう一つの説がある。京都八坂神社の裏参道に芋ぼう(里芋とぼう鱈の煮込み)を食わせる茶店があった。べらほうに美味しいので、北前船の船頭たちも酒田港に帰ってくると、北海道から荷揚げされたぼう鱈を買い込み、最上川の船着場中山町の長崎で地場産の里芋を、京風に煮込んだのが芋煮の発祥だというのである。いずれにせよ、山形の芋煮が全国的に名をあげるようになったので、その本家争いになったのではなかろうか。昭和の初め頃至誠堂病院から一寸東へのぼったところに“いもぼう”という小粋な小さな亭があって祖父に連れられて行ったことがある。


 

前進座との芋煮夜宴

田中 邦太郎

 

 先の大戦に敗れて間もない中秋、山形市街地を流れる馬見ヶ崎河原で芋煮の宴を催した。顔ぶれは前進座の河原崎長十郎、中村翫右工門ら一座と接待役をつとめる地元の演劇愛好者十数名であった。リアカーに食材の里芋・牛肉・ネギのほか、鍋・薪を積んで運び込み、まず、ほどよい大きめの玉石を集めてカマドを造り、泥のついた芋の水洗いなど、すべて役者さんたちにも手伝ってもらった。この日、前進座の演目は「べニスの商人」。マチネーだったので、その打ち上げが、夕暮れの河原で芋煮会となったのである。

 

 前進座は、山形公演を終わって間もなく日本共産党に入党した。数年を経て、党内幹部の路線騒動の影響から前進座内部にもいざこざが起こり、主導権を握った翫右ェ門のソ連派から追われて、座長の長十郎はひとり淋しく姿を消したのであった。

 

 時は流れて二十年後の一九六六年(昭和四十一年)、私は中国への入国を許されて杭州にあった。西湖の美しい湖畔に建つホテルで朝食を取っていると、そこに長身の長十郎が現れたではないか。そう、長十郎は中国に逃れていたのであった。懐かしさのあまり駆け寄り、「山形の田中です」と言ったが、相手は知るよしもない筈。そこで言葉を加えて、「河原の芋煮会」でご一緒したと述べたところ、「あゝ、中秋の名月が美しい夜でしたね」との答が帰って来た。

 

 一期一会という言葉があるが、それは芋煮の美味開眼であった。人との出会いは顔ではなく、その折りのなにげない郷土の料理などが伴っていなければならないのだと、つくづく思い直した。

 

 秋の風物詩『山形の芋煮会』は、いまや歳時記の季語にもなっている。

 

  蔵王嶺の芋名月となりしかな 角川源義

 

 

(出典:『やまがた街角 第2号』2001年10月1日発行)


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