八文字屋

閉じる

八文字屋

menu

店舗情報

イベント

それは山形のシンボルなのだ

服部 公一
(作曲家)


 私が山形市でいちばん誇らしい場所ときかれたら、それは「文翔館」と答える。これが昔の県庁舎であるのは良く知られたことだが、その来歴もだが建築物として美しいのである。

 

 ヨーロッパの都市には必ず品格の高いシンボル的な一角があるものだ。それは古城だったり、博物館だったりするが、いずれにしても現存している由緒ある建物をふくむ一帯である。山形市でそのような所と言えば文翔館である。

 

 ある日の午前十時に私はそこの東側を通った。初夏の日ざしのなか芝生で赤ん坊を遊ばせる若いママ、その背後のレトロな文翔館の建物。それはまるでドイツのどこかの街に居るような印象であった。

 

 この頃ここの議事堂ホールでコンサートがしばしば開かれる。せいぜい二五〇人ほどの小さなホールだが、ここが又出演者にもお客さんにも大好評な空間である。一度ここで演奏した音楽家は是非もういちどここでやりたい、と言うほど音響、雰囲気ともに最高なのである。

 

 文翔館は旧山形県庁舎が復元修理され、平成七年に一般公開されたものである。この費用が莫大で、ある換算によれば、大正五年の庁舎新設費用の三倍、四十五億円かかったのだそうである。参考までに、旧庁舎から三キロほど離れて新築された新山形県庁舎は昭和四十九年の建設費が約三十九億円である。つまり新設費用より復元の方が高くついたのだ。微に入り細を穿って原型に忠実にレトロ調の復元をしたようである。これはあのバブルの頃に計画実行されたのだが、良い時期にやったものである。

 

 大正の頃このような本格的西洋式建築の県庁舎は東北地方ではじめて。イギリス・ルネッサンス様式と称し、設計者は、かの鹿鳴館などを設計したジョサイア・コンドルの高弟田原新之助であった。建築面積は約三千平方メートル、総三階建てで山形一大きな建物。昭和十年代の初め私が見た最初の西洋風ビルディングだった。このような鄙には稀な建築を一体誰が発議をしたのか、もはやそれは判らない。大正五年米一升二十五銭の頃、新築費用「四十五万円」の巨費を調達するのは大変な苦労で、ほとんど否決すれすれの票決で県議会を通った、と記録に残っている。その前年の大火で県庁が全焼していたから、こんどは耐火建築すなわち本格的コンクリート建築にしなければ、とでも〈アガスケ〉な建設推進派議員が主張したのだろう。このようにしてできた県庁舎だったのである。

 

 いつも倹約は美徳であり正論で多数派である。しかし美に関してはそうはいかない。芸術のさきがけはいつでも少数派なことは歴史が証明している。ピカソもストラビンスキーも出だしは異端者で少数派だったが、一世紀もたたない昨今、ピカソ風のデパート包装紙あり、「春の祭血」の一部はホテルのBGミュージックに使われているではないか。我が山形の大正初期のアガスケ議員も捨てたものではない。

 

 この種の建築は百年二百年と維持して行くモノである。それに耐える建築的、美的な創造物でなければならない。敗戦から五十年ほどたったいま、あの戦後に建てられた建物は、その場しのぎとはいえもう殆ど美的にはもちろん、実用的にも更新修理不可能である。そこへいくと八十年たった文翔館は頼もしい。この建物には芸術的な底力があったのだ。

 

 ライトアップされた文翔館は四季それぞれに美しく、七日町大通りの正面にそれを見るとき「この町がオレの原点なのだ」と感動する。

 

 今ちょうど山形駅の西側に新県民施設、二千席を持つ大ホールが計画されている。

 

 本間利雄氏の立派な基本設計も出来上がっている。私はそこで上演されるプログラムに大きな関心を寄せているが、同時に建築物として、山形市街計画の二十一世紀モニュメントとしての存在意義にも重大な意義を感じている。これから八十年、百年後の山形県のシンポルとなるこの建物は、文翔館を建てた大正五年にまさるとも劣らない大決心とセンスとを県民に要求している、と私は思っているのである。

 

(出典:『やまがた街角 第7号』2002年8月1日発行)


一覧に戻る