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「マック ザ ナイフ」と七日町

渡辺 えり
(劇作家)


 つい一週間ほど前、世田谷の寿司屋に入ったら、カウンターの隅でホロ酔いかげんの中年女性に声を掛けられた。

 

 七日町の「ラセーヌ」という喫茶店の娘さんだという。今はもう別の店を弟さんが経営しているというが、その女性は同じ山形出身だからと、赤ワインを一本ごちそうしてくれた。

 

 東京に住んでもう十八年。様々な場所で山形出身の方に声を掛けられる。講演先の北海道や、芝居の公演で出掛けた大阪の劇場の楽屋口で、わざわざ花束を持って待っている方がいる。いつも初対面な中に話が弾み、嬉しい時を過ごすことになる。

 

 上京した当時は無我夢中で、山形を愛し懐かしむ気持ちなど持てなかったものだが、東京で暮らして年を重ねるごとに、山形での十八年間の月日か大きく重く、そして豊かなイメージとなって甦ってくる。

 

 仕事で日本のどの地域を訪れても、ロンドンの街角、グルシアの丘、パリの路地、ニューヨークの橋の上でも、常に山形と比較している自分かいる。

 

 いつまでも、東京の異邦人のような感覚が抜けないのである。そして、「東京」に慣れてはいけないという思いがいつも心のどこかにある。

 

 山形に生まれたということをどんな時にも誇りに思いたいという気持ちが年々強くなってくるのである。

 

 このことに関しては、別の機会に詳しく書くとして、今回は七日町での思い出を書こうと思う。

 

 小学校に入学する前年村木沢から美畑町に引っ越してきた私は、七日町で遊んだという記憶がない。中学は六中で、生徒会やクラブ活動に忙しく、ほとんど家と学校とを往復していただけだ。父も母も働いていたため、休日に家族でデパートに買い物に出掛けたこともない。村木沢に住んでいた頃、母と大沼デパートの屋上でソフトクリームを食べた覚えがある。空中プランコに乗ってあまりの恐布に泣き出して、途中で機械を停止させてしまったというにがい思い出もある。回りに恥ずかしく申し訳なかったと母が何度も話すので覚えているように錯覚しているだけかも知れない。

 

 七日町に良く出掛けるようになったのは高校生になってからである。一、二年の時は県民会館で芝居を観るようになったからで、その時にも他の店に立ち寄るということはなかった。家が高校まで歩いて三分だったため、他の町に出掛ける必要がなかったのである。

 

 演劇クラブの練習が夜遅くまであり、日曜も学校に行っていたので遠出することはほとんどなかった。

 

 それが三年になって入試のためクラブ活動がなくなると時間が出来た。まさに命がけでやっていたクラブ活動がないということは脳にポッカリと穴があいたようだった。

 

 そんな時、クラブの友人からフォークバンドの誘いを受けたのだった。

 

 県営体育館で「フォークジャンボリー」という大がかりな催しがあり、そこに出演するバンドをオーディションで決めるという。吉田拓郎、赤い鳥、ガロといった当時人気のフォーク歌手と共演できるのだという。その舞台に出演したいためだけに結成されたフォークバンドに入ることになった。

 

 リーダーは八文字屋の次男のY。全員高校三年生で男女混合の九人が集った。バンドの名称はYが決めた「終着駅」。八文字屋の裏手にあったYの家のYの部屋で、毎日遅くまで真剣な練習が続いた。余り出掛けたことのなかった七日町に、毎日通う日々が尋れたのだった。

 

 高校三年まで私は喫茶店に入ったことがなかった。そんな場所に入るのは不良だと思い込んでいた。父は教員、母は検察庁でのパートの事務をやっていたので固く固く育ったためだった。それがバンドの打ち合わせのため、仕方なく入ったのだった。その喫茶店が、七日町のジャズ喫茶「フランセ」だった。入ってみて驚いた。客は皆黙り、目をつむったり本を読んだりしながら、スピーカーから流れるモダンジャズやビッグバンドのジャズのレコードを聴いている。客のすべてが、知的な哲学者のように思えた。突然、音楽が変わり、女性歌手の語りが聴こえ、小気味の良い歌が流れた。神技のようなスキャットが辺りに轟き、鳥肌が立った。「このレコードは何ですか?」と店の人に聞くと「エラ・イン・ベルリン」と答えてくれた。エラフィッツジェラルドの「マックザナイフ」だった。エラフィッツジェラルドがベルリンでコンサートを開いた時に、ドイツ人のサービスのために歌ったクルトワイルの曲だった。こんな歌が歌えたら、と心が踊った。

 

 この日からジャズが好きになり、好んで「フランセ」に行くようになったのだった。バンドの方は練習のかいあって二百チームのうち三位に入賞し、県営体育館で歌うことができた。「マックザナイフ」も去年、NHKの「青春のポップス」で歌うチャンスを得た。高校の頃の夢がかなったのである。

 

 当時は声もソプラノで、山形の森山良子と仲間が冗談半分にほめてくれたことがあった。今年の十二月、その森山良子さんとデュエットすることになった。すべてがあの七日町での練習から始まっているのだ。そしてあの十七歳の頃の感覚と今がまるで変わっていないことに気が付いて唖然とする。いつまでも大人になれない自分がいるのである。

 

 笑って、泣いて、喧嘩して、みんなで箸をつっついた焼きソバの味。

 

 今でも山形に帰るとそんな仲間がいてくれることが幸せだなあと思うのである。

 

(出典:『やまがた街角 創刊号』2001年8月1日発行)


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